1950年、第二次世界大戦の終結による満州国の崩壊と国共内戦の終結により、共産主義国である中華人民共和国の一都市となったハルビン駅の構内。5年間にわたるソビエト連邦での抑留を解かれ、中華人民共和国に送還された「戦犯」達がごった返すなか、列から外れた1人の男が洗面所で自殺を試みる。その男は、監視人の手により一命を取り留めるものの、薄れ行く意識の中で幼い日々の頃を思い出していた。この男こそ、清朝最後の皇帝にして満州国の皇帝であり、紀元前以来から続く中国王朝の最後の皇帝たる「ラスト・エンペラー」、すなわち、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)である。
1908年11月14日、北京。清朝第11代皇帝・光緒帝の崩御に伴い、長きに渡って清朝の最高実力者として君臨してきた西太后は3歳の溥儀を紫禁城へ呼び出す。事態を察知した溥儀の実母福晋幼蘭は、乳母アーモに溥儀を託す。物々しい様子の宮中で溥儀は動じることなく無邪気に「お家に帰れる?」と繰り返すばかりであった。瀕死の西太后は、溥儀を皇帝に指名して崩御する。即位式の日、家臣たちが三跪九叩頭の礼で新皇帝に拝礼する最中、溥儀はコオロギの鳴き声を追って列中を歩き回る。そして居場所を突き止めるとコオロギを入れ物ごと家臣から譲り受けた。



再び、1950年、一命を取り留めた溥儀は、中華人民共和国の戦犯として撫順の戦犯管理所に送られる。そこの所長は自殺しようとした溥儀を助けた男だった。そこで待っていたのは「戦犯」としての自己批判の強要や要人の立場を奪われた生活習慣だった。そこで溥儀は厳しくも善良な所長相手に、孤独で不遇だった私生活を「すべては、(空虚な)儀式でしかなかった。」と振り返り、過去を回想していく。収容所では、実弟の溥傑と再会する。紫禁城を出ることが認められず、宦官らに奉られて育った溥儀にとって、溥傑は初めて出会った同世代の子供であり大切な存在となった。しかしながら、乳母のアーモからは依然として乳離れできず、溥傑の目を盗んでアーモの乳房に顔をうずめる。その様子を先帝妃たちが見ていた。ある日、溥傑が皇帝しか許されないはずの黄色い衣服を着ていたことから、兄弟喧嘩となる。溥傑は「兄ちゃんは皇帝じゃない」と言い、すでに辮髪もしない洋服の新しい「皇帝」が外にいると話す。溥儀は皇帝である証明に宦官に命令して墨汁を飲ませるが、溥傑は自動車に乗った袁世凱が新たな皇帝として君臨する姿を見せる。溥儀はショックを受け宦官らに問いただすと「紫禁城の外では皇帝ではないが、紫禁城の中では皇帝である」と説明を受ける。そしてアーモは紫禁城から追放され、溥儀は彼女を必死で追うが会えずに終わる。アーモは乳母以上に初恋の女性だったのだ。
再び1950年代、収容所所長は溥儀の過去を知るため家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが著した『紫禁城の黄昏』を開く。学生のデモ(五四運動)で物々しい北京市街を経てジョンストンは紫禁城へ赴く。城内は城外と打って変わって旧態依然としており、伝統や慣習がそのまま息づいていた。10代になった溥儀は知的好奇心旺盛で盛んに城外へ出たがっていた。ジョンストンは家庭教師として勉強だけでなく城外の知識や常識を溥儀に与え、信頼できる友人となる。1921年、溥儀の実母が逝去し、溥儀はジョンストンがプレゼントしてくれた自転車で城外へ出ようとするが衛兵に妨げられる。さらに城外へ出ようと屋根に上った際、頭を打ち、西洋人の医師から「眼鏡をかけないと失明する」と診断される。先帝妃らや宦官は反対するがジョンストンは眼鏡を認めないなら紫禁城の実態を新聞を通じて世界に伝えると言い返す。眼鏡を認められた溥儀が最初に見たものは、お妃候補たちの写真であった。17歳の婉容を皇后に、12歳の文繍を淑妃(第2皇妃、側室)に選ぶ。古式ゆかしい婚礼が行われ、婉容と文繍は友情を結ぶ。婉容を古風な女だと思っていたが、実際には溥儀の理想通り外国語が話せてダンスが踊れる「モダンな妻」であった。溥儀は2人でオックスフォードへ留学したいという夢を語り、婉容も彼を気に入り互いに好印象を抱く。
再び1950年代、溥儀は日本と接近した経緯と理由を激しく詰問される。成長した溥儀は、もはや城外への脱出ではなく改革を志すようになっていた。その始まりは辮髪の断髪と、宦官らの不正を露呈させるための美術品目録作成であった。その夜、不安を感じた婉容は自ら溥儀の寝所を訪れる。さらに文繍も現れ、3人で仲睦まじく過ごすが屋外では炎が燃え盛っていた。一部の宦官らが、証拠隠滅のため美術品ごと建福院に放火したのであった。溥儀は激怒し共和国軍の支援も得て1200名以上の宦官を全て追放する。日本への接近が決定的となったのは1924年、北京政変だった。溥儀を対象としたクーデターで、溥儀ら一族は1時間以内の退去を命じられる。ついに溥儀は紫禁城を離れることとなった。ジョンストンはイギリス大使館へ連絡して庇護を求めるが、国際問題になることを恐れ受け入れず、結局溥儀に手を差し伸べたのは、同世代の天皇もおり親近感もあった大日本帝国のみだった。
日本の庇護下、天津での生活は軍閥との交渉はあったものの総じて楽しいものだった。21歳になった溥儀と婉容は「ヘンリーとエリザベス」となり、社交界でも注目の的だった。一方、文繍は紫禁城の外では(社会的に)妻として認められず、孤独な思いから離婚を望んでいた。ダンスパーティーの最中、蒋介石の上海制圧のニュースが伝えられ、居合わせた欧米人らが拍手喝采する中、輪から外れた溥儀らに甘粕あまかす正彦が「日本公使館へお越し下さい」と誘いかける。文繍は車中で離婚の意思を告白し、混乱の中ついに出奔する。友を失った婉容の護衛のため「東洋の宝石」(Eastan Jewel)こと川島芳子が現れる。彼女は溥儀の遠縁であり、あらゆる情報に通じていた。彼女は清朝の陵墓(清東陵)が蒋介石の国民党により略奪されたニュースをもたらし溥儀を激しく憤慨させる。そして芳子は婉容にアヘンを勧めた。
再び1950年代、溥儀が自発的に満州国皇帝になろうとしたか否かで激しく論争が起こる。溥儀自身は告白には「日本に誘拐された」と記したが、ジョンストンは『紫禁城の黄昏』に溥儀が望んだと記していた。そして、かつての使用人も天津出立前日に荷造りをしたと告白。当時、溥儀は満州国の支配者の家系に生まれた自分抜きで満州国の成立はあり得ないと考えていた。清朝復活に魅かれる溥儀に対し婉容は「貴方は日本に利用されている」と慎重な姿勢を示す。所長は事実を思い出せ、と『紫禁城の黄昏』を溥儀の目の前に置く。
1934年に、溥儀はついに満州国皇帝となる。告天礼が行われた後、即位を祝う舞踏会の最中、婉容は涙を流しながら蘭の花を食べる異常な様子を示す。溥儀は婉容をたしなめるが、彼女は日本の傀儡でしかない現状だけでなく何故自分を抱かないのか抗議する。溥傑の横で客人から挨拶を受ける嵯峨浩を見やり自分も彼女のように子供が欲しいと訴えるが、溥儀はアヘン中毒が理由だと説明し訪日にも連れて行かないと告げる。宴を中座した婉容は芳子の導きでアヘンと同性愛関係に溺れていく。日本で歓迎を受けた溥儀が帰国すると、満州国内の様子が変わっていた。国務総理大臣鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū)は息子の暗殺を機に隠棲し(=辞職に追い込まれ)、代わって軍政部大臣張景恵(Zhāng Jǐnghuì)が関東軍の推薦の元、溥儀から後任の承認を得ようとしていた。御前会議の場で溥儀は張の首相就任却下を申し出て、更に諸外国からも承認されつつある満州国を独立国として日本のみならず各国と対等な関係を築こうと話すが、関東軍の息のかかった家臣は次々に退席した。
夕食の席で、婉容は溥儀に懐妊を告げる。相手は満州人で、溥儀のためにもなると話す。そこへ甘粕が現れ、張の首相就任承認のサインをするよう迫る。溥儀は皇后の懐妊を告げ満州国の後継者が誕生すると強気に出るが、甘粕は逆に相手の男の名を溥儀に教える。溥儀は帝室の名誉のため傀儡となることを余儀なくされる。やがて婉容は出産するが、生まれた子はすぐ殺害され婉容は静養のため皇宮を離れる。溥儀は彼女を必死で追うが会えずに終わる。その様子を見ていた甘粕と芳子は指を絡めあうのだった。
再び1950年代、戦犯たちに対し中国共産党視点での歴史映画が放映される。大日本帝国は満州で侵略の足場を固め、上海での無差別爆撃、南京での虐殺、真珠湾奇襲、そして満州における細菌戦のための人体実験にアヘン生産――満州の映像が流れたとき、溥儀は思わず立ち上がる。日本の敗戦、そして満州国の滅亡により、溥儀は溥傑の勧めにより日本への亡命を図る。出立直前、皇宮に戻った婉容と再会するが、アヘンの中毒症状で変わり果てた姿の彼女はもはや会話が成立する状態ではなかった。そして亡命の飛行機内で、ソ連に捕えられたのであった。溥儀は、共産党政府が用意したあらゆる「告白」に一転して署名を行った。1959年に特赦により管理所を出所する。文化大革命の嵐が吹き荒れようとしていた折、一介の庭師として植物園に職を得ていた溥儀は、紅衛兵のデモの中に罪人として引き回され晒し者にされているかつての管理所長の姿を見つける。紅衛兵に話しかけ懸命に庇おうとする溥儀であったが、徒労に終わり所長は連れ去られていく。
1967年、溥儀は博物館として一般公開されている紫禁城へ行く。そして、かつては自分のものだった玉座へと赴く。そこには彼の顔も知らない博物館の守衛の子供が一人いるだけだった。玉座への立入をとがめる子供に「昔ここに住んでいた」と語る。溥儀は皇帝だった証拠として、幼い頃玉座の隅に隠し持っていたコオロギの壷を手渡す。そして、なんと壺からコオロギが出てきた。子どもが目を上げたとき、そこにはもう溥儀の姿はなかった。
時代は移り、1987年(公開当時の「現在」)。歴史を直接に知らない国内外から訪れた大勢の観光客たちが紫禁城を訪れ、騒がしさの中、20年前に亡くなった過去の皇帝溥儀の玉座を眺めるのだった。・・・幕

ハラハラするドラマチック性よりも、ドキュメンタリー風な作風の歴史物語。清朝の豪華絢爛な衣装や建造物が前半を魅了し、溥儀の晩年は中国共産党の政治プロパガンダ風な色彩も入ってます。激動の皇帝、いつも政治の実権を持たせてもらえなかった愛新覚羅溥儀の悲哀も少し、そして蒋介石の中国国民党→大日本帝国→毛沢東の中国共産党と翻弄される様が描かれていました。ラストの壺からコオロギが出てくるシーンは、オイラは溥儀もコオロギも、霊として紫禁城に来たのかな?と感じましたね。

事実との相違点
史実を元に製作されているが、演出のために脚色された部分が多く史実とは違う点が複数みられる。
ソ連軍の捕虜となった溥儀が自殺未遂を起こした事実はない。
西太后が溥儀を召見したのは1908年10月20日で、崩御したのはそれから26日後の11月15日である(映画では召見中に崩御)。
西太后の崩御シーンはセットによる撮影で、実際に西太后が崩御したのは紫禁城ではなく、西苑(現在の中南海)に建てられた儀鸞殿(現・懐仁堂)内の福昌殿。龍が柱に巻き付いた内装なども美術チームの創作。
溥儀が紫禁城から城外へ出ようと屋根に上った際に頭を打ち、これをきっかけにメガネをかけるようになったのは史実ではない。
婉容が溥儀の年上に描かれているが、史実では2人とも1906年生まれの同い年。
婉容が川島芳子と同性愛関係にあったように描かれているが、このような事実はない。
ジョンストンが帰国する際、溥儀が自ら天津港まで見送った事実はない。史実では、ジョンストンが天津の溥儀寓居「静園」を訪れ暇乞いをした。
史実の嵯峨浩は溥儀の満州国皇帝即位関連行事に参列していない。即位式は1934年に挙行され、溥傑と浩の結婚は1937年。
舞踏会シーンを撮影した満州国皇宮の同徳殿は1938年竣工で、溥儀の即位当時には存在しない。
甘粕正彦は片腕となっているが、実際は両腕ともあった。片腕という設定は監督の発案によるもの。
甘粕正彦が溥儀の監視役となっているが、実際この役目は吉岡安直が行っていた。
甘粕正彦が川島芳子と恋愛関係にあったように描かれているが、このような事実はない。
甘粕正彦は切腹して自決する筋書きになっていたが、これに強い違和感を持った坂本が監督を説得し、拳銃自殺に変更された。史実上の甘粕は服毒自殺した。
張景恵は麻薬取引に暗躍した実績を買われて満州国の国務院総理になったという設定だが、このような事実はない。
張景恵が戦犯刑務所内で長年の麻薬の吸引により廃人同然になったと描かれているが、このような事実はない。
溥儀より先に溥傑が戦犯刑務所より出所していたが、このことには触れられていない。
晩年の溥儀が中国人民政治協商会議全国委員を務めたことには一切触れられず、庭師として死んだことになっている。

1987年 中国・イタリア・イギリス・フランス  The Last Emperor、末代皇帝 219分
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、マーク・ペプロー
音楽:坂本龍一、デイヴィッド・バーン、蘇聡
美術:フェルディナンド・スカルフィオッティ
衣装:ジェームス・アシュソン
出演:ジョン・ローン 愛新覚羅溥儀
ジョアン・チェン 婉容
ピーター・オトゥール レジナルド・ジョンストン
ウー・ジュンメイ 文繍
ヴィクター・ウォン 陳宝琛、溥儀の教育係
デニス・ダン 大李、溥儀の召使
坂本龍一 甘粕正彦
マギー・ハン イースタン・ジュエル、川島芳子
イェード・ゴ アーモ、溥儀の乳母
リサ・ルー 西太后
英若誠 戦犯収容所所長